
石見と言えば石見神楽、と真っ先に連想される程、石見神楽は快適なリズムと豪華さでもって人気を博していますが、その中にあってこの大元(おおもと)神楽は一種特別な特徴を持っている神楽です。邑智郡一帯に伝わるこの神楽は、大元神を祀る各社祠において、五年、七年、もしくは十三年に一度行われる式年祭に際して舞われます。よって神楽自体も極めて神事色が強く、祭礼神事に加えて神事的な舞の部分については基本的には神職がこれを担い、そして着面による神話劇風な能舞部分についてはそれぞれの地の一般有志から成る石見神楽団が演じるという混成型の神楽となっています。
本来神楽とは、場を清め、神を招き、神の出現を経てお告げを受ける、という意味を持った神事です。他ではほとんど見られなくなったこの「お告げを受ける」を現出する場面が、ここでは「綱貫(つなぬき)」という演目で現され、今なお絶えることなく伝えられています。
このような稀有な特徴と、江戸時代初期の元和元(1615)年まで確実に遡る確かな由緒などから、神職が担う神事的な舞の部分が国の重要無形民俗文化財に指定されています。
石見神楽としての斬新な華やかさに加え、長い伝統と神事性が醸し出す厳粛さをも兼ね備えた多面性、それが大元神楽の魅力かもしれません。

大原(おおはら)神主神楽は、大原郡内の神職達で構成する「出雲國大原神主神楽保存会」によって伝承されています。それぞれの神職達が仕える郡内の神社祭礼時に奉納される他、出雲大社や近郷諸社の祭礼にも招かれて神楽奉納が行われています。
伝えられるところによると、この神楽の起源は戦国時代の永正〜天文年間(16世紀前半)頃まで遡るとされ、江戸時代を経て次第に盛んになっていったようです。ところがその後、明治時代に至ると神職による演舞に対し禁止令が出され、一時は中断を余儀なくされていましたが、大正時代に入るや復興を果たし、現在数少ない神職神楽の一つとして伝統を今に伝えています。
神楽の構成は、基本的に出雲神楽の形式に則っており、「七座(しちざ)」と総称される七番から成る神事的な舞で始まります。舞人は面を着けないいわば「神職」としての姿で場を清め、神を招き寄せます。そして後段では「神」が降臨したとして着面による「国譲(くにゆずり)」、「八戸(やと・大蛇(おろち)退治の場面)」などの神話劇が演じられるのです。この後段を「神能(しんのう)」と総称します。
そのような演目の中でも、この神楽が保持する稀少なものとして「託宣(たくせん)」が挙げられます。本来神楽とは、場を清め、神を招き、神の出現を経てお告げを受ける、という意味を持った神事です。他ではほとんど見られなくなったこの「お告げを受ける」を現出する演目が「託宣」です。神職が伝え抜いた神楽だからこそ、今にまで保たれ続けているとも言える、稀少な演目です。

大土地(おおどち)神楽は、出雲大社のお膝元・簸川郡大社町に伝承されている神楽です。今では「大土地神楽保存会神楽方」によって受け継がれ、毎年10月25日の大土地荒神社例大祭時に舞い納めることを中心に、出雲大社や近郷諸社の祭礼にも招かれて神楽奉納を行っています。
神楽の構成は基本的に出雲神楽の形式に則っており、「七座(しちざ)」と総称される七番から成る神事的な舞で始まります。舞人は面を着けないいわば「神職」としての姿で場を清め、神を招き寄せます。そして後段では「神」が降臨したとして着面による「荒神(こうじん・国譲りの場面)」「八戸(やと・大蛇(おろち)退治の場面」などの神話劇が演じられるのです。この後段を「神能(しんのう)」と総称します。
ところでこの大土地神楽、その起源についてはっきりしたことはわかりませんが、万治3(1660)年には既に舞われていたことを示す記録が残されています。その後、本来神職のみで司るべき神楽方を氏子の有志達までもが加わって務めるようになり、さらに宝暦11(1761)年からは子供にも神楽を舞わせるようになっています。全国的に神職による演舞が禁止され、氏子中の有志達の手に神楽の担い手が移ったのは明治時代初めのこと。いわば、現在では当たり前の一般有志者による神楽、また人気の子供神楽のさきがけが、ここ大土地神楽とも言えるでしょう。
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